PARCIC

スリランカ

美味しい紅茶のふるさと - 新しい多民族社会に向けて

”インド洋の真珠”ともいわれる美しい島。北海道の約8割の面積でしかない島国で、人口の15%を占めるタミル人の組織と多数派のシンハラ人の政権との間に、1983年から2009年まで26年間にわたって内戦が続きました。パルシックは2004年7月にタミル人地域である島の北端の町、ジャフナに事務所を置き、内戦で被害の多かった漁村の復興支援事業を開始しました。

プロジェクトを知る

スリランカの南北女性をつなぐサリー・リサイクル・プロジェクト(2013年4月~)

北部の寡婦女性たちを対象にミシンを提供、縫製技術を指導して、裕福な世帯から寄付してもらったサリーをリメイクして、ブラウスやバッグなどの縫製製品を作っています。 事業を通して女性たちの収入向上を目指すと同時に、スリランカの南部と北部の相互理解と平和構築に寄与することを目標としています。

ムライティブ県帰還民の生活再建緊急支援事業(2013年3月~)

ムライティブ県マリタイムパットゥ郡の東南沿岸部に位置する、コクトルワイ、カルナドゥカーニ、コクライの3村で、帰還民の生活向上、コミュニティ復興のための井戸建設と、各村の漁業協同組合の強化に取り組んでいます。

デニヤヤ小規模紅茶農家支援(2011年4月~)

シンハラージャ環境保護区に隣接する南部のデニヤヤにて、小規模紅茶生産者の有機紅茶栽培を支援する事業を行っています。茶畑を有機転換することで、小規模農家の安定した収入の確保と、環境保全に取り組んでいます。

ムライティブ帰還漁民への漁具配布事業(2012年3月~12月)

2012年に実施した帰還漁民を対象とした生計向上支援に続き、共同井戸の建設、漁協活性化のための研修実施、船着き場・セリ場の建設、養殖技術の指導、コミュニティホールの建設と交流プログラムの実施を行いました。

洪水被災者支援(2011年1月~5月)

2011年1月初旬と下旬に起こった洪水で、被害の大きかった東部のトリンコマリ県南部を対象に教育用品の配布と、全壊もしくは半壊した家屋を対象に建設資材の配付を行いました。

ジャフナ県の漁村で干物づくり支援(2010年10月~2013年9月)

スリランカ北東部には86,000人もの寡婦がいるといわれており、その多くが北部の内戦で夫を亡くした人たちです。その生活は苦しく、パルシックは彼女たちが干物づくりをして生活を立てていけるよう2003年から支援をしてきました。

南部州デニヤヤで糖蜜づくりを支援 (2010年4月~2011年3月)

スリランカの南部デニヤヤで、この山の中の農民たちが、キトルヤシの蜜を採取してキトルハニーやハクルを作り、地元のNGOと共に市場に出すお手伝いをしました。

スリランカ緊急人道支援(ジャフナ県)(2009年8月~2012年2月)

2009年5月18日、スリランカで26年間続いた内戦が終結しました。かつてのLTTE(タミル・イーラム解放のトラ)支配地域に住んでいたタミル人は全員難民キャンプに収容されました。そこに収容されている人たちに食料配布を行いました。

東部州トリンコマリー県で学校修復支援(2009年4月~2010年3月)

政府軍からの大規模な空爆によって、銃弾や砲弾の跡が残り、修復されないままだった学校を住民参加型で修復を行いました。

ジャフナ県で養鶏を支援(2007年4月~2009年12月)

2007年初頭にパルシックは食料配布をおこないましたが、再燃した内戦が長期化するなかで、持続可能な方法で収入を得ることができること、かつ漁村に少しでも食糧が供給されることを目的として、2007年4月、漁村の貧窮世帯を対象として養鶏を開始しました。

津波復興支援(2005年1月~2005年12月)

2004年12月26日のスマトラ沖地震による津波は、スリランカの海岸線の8割以上を襲い、3万人以上の命を奪いました。その直後に緊急支援として、医薬品や食料、日用品の調達・配布を行いました。漁具を失った漁師を対象に、地引網と漁船を提供しました。

内戦復興支援の一歩として干物づくりを開始(2004年4月~)

ジャフナ県で、2005年に乾燥台などの機材を提供し、干物の加工に関する指導を行いました。結果、干物の品質がよくなり、10%から20%程度高く売れるようになりました。女性たちの生計が少しでも向上するように、支援を実施しました。

スリランカを知る

スリランカはシンハラ、タミル、ムスリムをはじめとして複数の人びとの文化が入り混じった国。北海道の約8割ほどしかない島の気候は、南西部と北東部で大きくふたつに分かれています。海のある地域では伝統漁業が行われ、美しい海は世界有数のサーフスポットにもなっています。山のエリアには多様な生物が暮らし、手つかずの大自然が残っています。

食べる

スリランカといったら紅茶とカレー。現地の人は毎日、紅茶を飲み、朝・昼・晩とカレーを食べます。町を歩くとスリランカスナックを販売する屋台に出会えます。

学ぶ

長い歴史を持つスリランカ。1983年から2009年までの26年間、タミル人の組織と多数派のシンハラ人の政権との間に内戦が続いていました。歴史や政治、文化からスリランカの魅力をお伝えします。

観る

スリランカにはヒンドゥー教、仏教などの数々の遺跡が残されつつ、コロンボでは開発が進み、内戦前にはスリランカ第2の都市だったジャフナも復興が進んでいます。あまり知られていない観光名所の数々をお伝えします。
  スリランカ民主社会主義共和国(Democratic Socialist Republic of Sri Lanka)
首都 スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ
面積 6万5601キロ平方メートル(北海道の約8割の大きさ)
人口 2023万8千人(2008年)
言語 シンハラ語、タミール語
宗教 仏教:約70%、ヒンドゥー教:約15%、イスラム教:約7%、キリスト教:約7%
主食 米、多様なカレー
通貨 スリランカルピー
1948年
2月 英連邦内自治領セイロンとして独立。
11月 セイロン市民権法18号:国籍取得に関する制限。インド(高地)タミル人などインド系住民のほとんどが国籍を剥奪されていく。
1956年
シンハラ語公用語化(「シンハラ・オンリー」と呼ばれる政策)
1972年
5月 新憲法採択、仏教の準国教化。
英自治領からの完全独立。
政権議会が賛成119、反対16で共和国憲法を採択。国名をセイロンよりスリランカに改称、政体を共和制に変更。初代大統領ウィリアム・ゴパーラワ(Williamu Gopallawa)。
トリンコマリでタミル統一戦線(Tamil United Front:TUF)設立。参加母体はACTC,FP,CWCでイーラム共和国樹立を宣言。
プラバカランLTTEの前身「タミル・ニュー・タイガー」設立。
1974年
1月 第4回国際タミル研究会議(ジャフナ)で警察官10人を殺害。
スリランカ・インド両国政府、カッチャーティブ(Kachchate)島のスリランカ帰属、ポーク海峡の領海決定の協定に調印。
国防省、東部台風団(Peradige Sulang Kalliya)、黒いランプ(Kalupahana)、ランカ革命青年組織(Lanka iplakari Tharuma Sanidanaya)の3団体について緊急考案法によりテロ活動を理由に解散を命じる。
人民解放戦線(JP)の裁判結審し、指導者のヴィジェヴィーラに終身刑の判決が確定。
1975年
5月 プラバカラン、「タミル・ニュー・タイガー」を母体にして「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」設立
1977年
7月 第8回総選挙で統一国民党(UNP)大勝(168議席中140議席)、J.R.ジャヤワルデナ首相就任。タミル統一解放戦線(TULF)は16議席獲得し、第一野党に。
8月 ジャフナで警官と民衆衝突、各地でタミル人に対する暴行、略奪波及し、72時間の外出禁止令。
11月 ローハナ・ヴィジェヴィーラ人民解放戦線委員長釈放。
1978年
2月 議院内閣制から大統領内閣制に:J.R.ジャヤワルダナが初代大統領。
ラナシン・プレマダーサが首相に任命される。
1983年
7月 ジャフナで政府軍兵士13人殺害。コロンボほか各地で大規模な反タミル人暴動(「黒い7月(Black July)」)。「第一次イーラム戦争」へ。
1985年
6月 インド・スリランカ両国首脳会談のコミュニケ発表。武力行使を停止、政治的解決を図り、北・東部州が正常な状態に復帰することにより、難民がインドから帰還しやすくする。スリランカ政府と「イーラム国」独立運動グループとの和平交渉がティンプーで始まる。
1987年
5月 政府軍によるジャフナでの大規模な攻撃開始。
1987年
4月〜11月 インド空軍輸送機がジャフナ上空飛来、食糧や医薬品を投下。
7月 インド介入。「インド・スリランカ和平協定」調印。インド平和維持軍(IPKF)スリランカ派遣。
和平協定を受けた憲法第13次修正と州議会法可決へ。北部・東部州暫定的併合、シンハラ・タミル両言語公用語化、武装勢力の武装解除などへ。LTTEはインド介入に反発しインド平和維持軍と戦闘。
インド介入に反対する人民解放戦線(JP)の武装蜂起と政府による鎮圧へ。
1988年
9月 ジャヤワルダナ大統領、北部州と東部州を一時的に単一行政単位にすると宣言。
11月 北東部州の選挙実施。インド軍の支持を受けたEPRLFが勝利。
1989年
1月 ラナシンハ・プレマダーサ(Ranasinghe Premadasa)が、第2代大統領に就任。
7月 JP鎮圧開始:その後半年間で3000人死亡。
1990年
1月 インド平和維持軍(Indian Peace Keeping Force, IPKF)が立ち退いた後の北部州・東部州地域を、LTTEが占領。
6月 スリランカ政府軍とLTTEとの軍事衝突が激化(バブニヤ)。
7月 イーラム人民革命解放戦線(EPRLF)が一方的に北・東部州独立を宣言しようとしたため、スリランカ政府が北東地域議会を解散。
1991年
5月 マドラス近郊で、ラディーブ・ガンジー(Raji Gandhi)インド首相(国民会議派)が、LTTE工作員とされる自爆攻撃に遭い暗殺される。
6月 スリランカ政府軍とLTTEとの戦闘が激化(Eelam War II)。
内政干渉を理由に英国大使が国外退去を命じられる。
1993年
4月 統一国民党(UNP)から分離した統一国民民主戦線(DUNF)のラリト・アトラトムダリ委員長、コロンボの選挙集会で演説中に暗殺される。
5月 プレマダーサ大統領、メーデー行進指揮中に暗殺される――ヴィジャトゥンガ首相が暫定的な後任大統領に選ばれる。
1994年
6月 第10回総選挙。全225議席中、UNPが94議席、スリランカ自由党(SLFP)率いる人民連合(People’s Alliance, PA)が105議席を獲得。チャンドリカ・バンダーラナーヤカ・クマーラトゥンガが、第14代首相に就任(同月19日)。
11月 第3回大統領選挙。UNPのシリマ・ディサナーヤカ候補を破って、SLFPのチャンドリカ・バンダーラナーヤカ・クマーラトゥンガ首相が勝利。得票率は、UNPが35.9%、SLFPが62.3%。
1995年
1月 クマーラトゥンガ大統領、LTTEとの和平会談の再開を約束、暫定的停戦。
4月 LTTE、トリンコマリー港に停泊中の海軍艦艇2隻を沈没させ、戦闘再開。
12月 LTTEが、戦域をジャフナ(Jaffna)からキリノッチ(Kilinochchi)へ移動させる。
1996年
7月 LTTEが、ムライティヴ(Mullaittiu)にあるスリランカ政府軍基地を襲撃。政府軍兵士1,400人近くが死亡。
1997年
1月 スリランカ政府軍が、ワウニヤとジャフナを結ぶ国道を奪還するために、「確実な勝利(Jaya Sikirui)」作戦を開始。
10月 英国の仲介により、PAとUNPが民族紛争解決に向けて歴史的合意に達する。
アメリカ合衆国が、LTTEを「テロ」組織に認定。
1998年
1月 LTTEが、キャンディの仏歯寺に爆弾を積んだトラックで突入。キャンディで、シンハラ人とタミル人の暴動が発生。シンハラ人は、タミル人が経営する店舗やヒンドゥー教寺院などを襲撃。
1999年
12月 北部州のバブニヤ北部とジャフナ南部で激しい戦闘続く。
エレファント・パスで、スリランカ政府軍とLTTEの激しい戦闘。
クマーラトゥンガ大統領、コロンボの選挙演説中に自爆攻撃で負傷するが再選を果たす。
2000年
1月 ノルウェーの仲介による和平の開始(外相、ロンドンでLTTE幹部と会談)
10月 LTTEの攻撃を受け、エレファントパス陸軍基地陥落。
イスラーム政党のスリランカ・ムスリム会議(Sri Lanka Muslim Congress:SLMC)委員長のアシュラフ港湾相がヘリコプター墜落で死亡。
第11回総選挙が実施される。225議席中、UNPが89議席、人民連合(PA)が107議席、人民解放戦線(JP)が10議席、タミル統一解放戦線 (TULF)が5議席。人民連合(PA)は過半数に6議席及ばなかったが、小政党の協力により過半数を確保。SLFPのラトナシリ・ウィクラマナーヤカ (Ratnasiri Wickramanayake)が首相続投。
2001年
1月 ロンドンで、ノルウェーの和平特使エリック・ソルハイム (Erik Solheim) が、LTTE政治顧問であるアントン・バーラシンハム (Anton Balasingham) と会談。
7月 コロンボで、数千人の参加のもと、クマーラトゥンガ-大統領による国会停会措置に抗議するデモが実施される。デモ隊に向けてスリランカ警察が銃を発砲し、2人が負傷。
カトナーヤカ空軍基地と国際空港がLTTE軍に攻撃され、10機以上の空軍機と民間機が爆破される。
12月 第12回総選挙が実施される。UNPが109議席で多数を占める。国民統一戦線(UNF)、人民連合(PA)が77議席、人民解放戦線(JP)が16議席、タミル民族同盟(タミル統一解放戦線(TULF)など、4つのタミル人政党の合同体)が15議席、スリランカ・ムスリム会議(SLMS)が5議席、イーラム人民民主党(EPDP)が2議席、民主人民解放戦線(DPLF)が1議席。UNFのウイクラマシンハ内閣成立。クマラトゥンガ大統領と首相が議会では与野党に分かれるというねじれが生じる。タミル・イーラム解放のトラ (LTTE) が、12月24日から1ヶ月間の一方的な停戦を表明。これに応じてスリランカ政府も24日からの停戦を表明。
2002年
2月22日 ノルウェーの仲介により、スリランカ政府とLTTEが無期限停戦に合意(CFA)。
9月 タイのサタヒプ海軍基地で第1回和平交渉開かれる。LTTE側はタミル・イーラム国家の分離独立ではなく、スリランカ国家内での民族自決を追及すると表明。
10月 タイのナコンパトムで、第2回和平交渉、明石康日本政府代表を緊急人道・復興ニーズを扱う小委員会(スリランカ政府、LTTE,イスラム教徒の代表で構成されるSubcommittee for Immediate Humanitarian Relief Needs: SIHRN)の最高顧問にするという合意得られる。
12月 第3回和平交渉、オスロで開かれる。北・東部復興支援資金の管理を世界銀行に委ねる合意。両者は、「ひとつのスリランカの中で連邦制度を構築すること (a federal structure within a united Sri Lanka)」を追求することに合意。
2003年
1月 第4回和平交渉、タイのナコンパトムで開催。和平成立後の政治的な枠組みとして連邦制を検討することで合意。
2月 第5回和平交渉をドイツのベルリンで開催。児童兵士などの人権問題を解決するために、イアン・マーティブ元アムネスティ・インターナショナル代表をアドバイサーに任命。
3月 第6回和平交渉、箱根で開催。
4月 スリランカ復興支援準備会合をワシントンで開く。LTTEをテロリスト規定している米国で開いたことにLTTE側は抗議。
6月 スリランカの復興開発に関する東京会議開催。2003年から2006年までの4年間にわたり見積額合計45億米ドルを超す支援を表明。LTTE参加せず。
10月 LTTE、北・東部に広範な自治を求める和平案「北部・東部暫定自治機構案(ISGA)」を発表。
11月 クマラトゥンガ大統領、ヴィクラマシンハ首相訪米中に議会を停止、国防相、内務相、情報相を解任。
2004年
2月 クマーラトゥンガ大統領は国会を解散
3月 LTTE東部代表のカルナ少佐が6000名の兵士を伴ってLTTEを離脱。
4月 第13回総選挙実施。全議席225中105議席をクマラトゥンガ大統領率いる野党連合「統一人民自由連合(UPFA)が抑え第1党となり、与党UNPは82議席。ハンバントータ出身のマヒンダ・ラージャパクシャが首相となる。
12月 東部、南部を中心にスマトラ沖大地震のインド洋津波に襲われる。
2005年
6月 政府・LTTEの津波後救援資金共同運営枠組み(P-TOMS)が政府とLTTEとの間で合意。JPはこの動きへの抗議から与党連合を離脱。P-TOMS体制は最高裁で違憲と判断され、実施には至らず。
8月 カディルガマル外相暗殺。LTTEの狙撃兵によるものとされる。
11月 大統領選挙実施。首相であったSLFP「スリランカ自由党」のマヒンダ・ラジャパクサが、野党UNP「統一国民党」党首ラニル・ウィクラマシンハを僅差で破り、大統領となる。北部タミルはLTTEの指示によって投票をボイコット。LTTEが「英雄の日」スピーチで「自決の闘い」強化を表明。
12月 ジャフナで政府軍を狙った爆発物攻撃により死傷者。「第四次イーラム戦争」へ。
2006年
2月 ノルウェー仲介により政府・LTTE直接交渉(スイス・ジュネーブ)
4月 サラス・フォンセカ陸軍司令官を狙った自爆攻撃。政府軍が空爆。
7月 タミル人居住区に飲料水さえ十分に供給されず、シンハラ入植農民にのみ配水されてきた、という積年の不満を表明するためである、と表明しLTTEがトリンコマリ県マウィル・アール水門を閉鎖。政府軍は「市民生活を守るための限定的な侵攻」という大義名分を掲げて、空爆、地上軍の派遣に踏み切った。LTTEは8月5日午前0時に撤退を開始し、停戦協定時に定めた支配地区に戻った。
8月 ジャフナ半島で内戦再燃。
11月 東京援助国会議の共同議長国(米、日、EU、ノルウエー)がワシントンで会合:スリランカ政府・LTTE双方の停戦合意違反を非難。
12月 「テロリズム規制法」導入。
LTTE幹部、アントン・バーラシンハムが死去(病死)。
2007年
1月1日 北部州、東部州分離の一環として、ウィジェウィクラマ北東部州知事を「東部州知事」として新たに任命。
2月27日 バティカロアを視察に訪れた日米独伊欧の大使を乗せた空軍ヘリが着陸直後にLTTEの迫撃砲攻撃を受ける。
3月22日 LTTE飛行機がカトゥナヤカ政府空軍基地を空爆。
4月26日 LTTE飛行機がコロンボ近郊(ガス・オイル施設)を空爆。
7月 政府軍が東部LTTE支配地域をほぼ制圧。
11月 LTTE政治局長のS.P.タミルチェルバンが政府軍の空爆により死亡。
2008年
1月2日 政府が停戦協定の破棄をノルウェーに通告。
1月6日 コロンボ市内でタミル人野党UNP議員のマヒシュワラン氏が銃撃され死亡。
4月6日 西部州ガンパハ県のスポーツ大会会場で自爆テロ、出席していたハイウェイ・道路開発大臣が死亡。
5月10日 東部州議会選挙:与党勢力UPFAが議席の過半数を占め、UPFA連合内のTMPのピッラリヤン(元LTTE)が主席大臣就任。
9月 政府の勧告を受けて国連機関、国際NGOがワンニ地域から撤退。
10月14日 インド、タミルナドゥ州選出国会議員がインド政府にスリランカのタミル人の人権侵害に対処することを要求。
2009年
5月 政府軍の圧勝による内戦終結
2010年
1月 大統領選挙でラージャパクサ大統領、再選
4月 総選挙、UPFAが144議席(国会定数225)を獲得
5月 ラージャパクサ大統領「過去の教訓・和解委員会(LLRC)」を設置
6月 潘基文(パンギムン)国連事務総長、国連専門家パネルを設置
2011年
11月 LLRC、ラージャパクサ大統領に最終報告書を提出
4月 国連専門家パネル、国連事務総長に報告提出
2013年
9月 最大の国内避難民キャンプ、マニックファームが閉鎖
初めての北部州政府選挙実施
2014年
6月 仏教原理主義者によるムスリム地域襲撃
10月 ジャフナタウンまで鉄道が再開通
外国人への北部渡航が制限され、許可証が必要となる。
2015年
1月 大統領選挙:現職ラージャパクサが敗れ、野党UNPの支援を受けた元スリランカ自由党(SLFP)幹事長のマイトリパーラ・シリセーナが新大統領に就任。
外国人への北部渡航制限が解除される。
4月 大統領権限を抑制する憲法第19条改正が可決される。
8月 総選挙:UNPが率いるUNFGGが106席を獲得し第一党となる。UPFAが率いるUPFAは95席。
2002年の停戦合意以来、政府軍によって設置され終戦後も残されていた北部ワウニアのオーマンタイ検問所が撤去。
10月 国連人権理事会にて「スリランカにおける和解と説明責任の促進」に関する決議が採択される。

スリランカは、生産量としては世界第4位、輸出量としては世界第3位と世界の紅茶産業の主要国の一つとなっています(表1参照)。スリランカ国内においては、輸出産業の16.6%を、国内総生産の1.3%を紅茶産業が占めています。さらに、国内最大の雇用を担い、100万人以上(人口約2,065万人のうち)が何らかの形で紅茶産業に従事しています。スリランカの紅茶産地は標高によって、ヌワラエリヤ、ディンブラ、ウバなどが点在している高地(1,200m以上)、キャンディ付近の中高地(600-1,200m)、ルフナ茶の産地である南部の低地(600m以下)の3つに大きく分けられます。それぞれ味や香りに特徴があります。1971年の国営化や、1992年の民営化など、ここ2-30年の間で紅茶産業の政策が大きく変化しており、それに伴い紅茶産業の構造も英国植民地時代から引き継がれていた高地(1,200m以上)、中高地(600-1,200m)での大規模プランテーションから、低地(600m以下)の小規模農家へと、生産地の変移が起きており、近年はスリランカ紅茶の50%以上が低地で生産されています(表2参照)。

2011年度は、全体的に前年度に比べて生産量が低下しましたが、生産量自体よりも問題となったのは、紅茶価格の低下でした。ヨーロッパの経済状況、および中東諸国での政治的不安定などが要因となり、2011年度前半は価格低下が穏やかでしたが、後半になり前年に比べて価格の停滞が深刻化しました(表3参照)。

タイトル 著者 出版元 [出版年]
スリランカ--人びとの暮らしをたずねて 渋谷利雄・高桑史子 段々社 [2003年]
スリランカ学の冒険 庄野護 南船北馬舎 [1996年]
スリランカ-暮らしがわかるアジア読本 杉本良男編 河出書房新社 [1998年]
熱い紅茶 アヌラー・W・マニケー著
中村禮子/スーシー・ウィターナゲ訳
段々社 [1995年]
明日はそんなに暗くない エディリヴィーラ・R. サラッチャンドラ著
中村禮子、パドマ・ラタナーヤカ訳
南雲堂 [1991年]