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[開催レポート] 8/26 パレスチナカフェ・駐在員が語る西岸地区の暮らし ~心は半分パレスチナ~

こんにちは、東京事務所インターンの山口です。

2019年8月26日(月)に、パレスチナの政治情勢とパレスチナでのパルシックの活動についてお話するパレスチナカフェが開催されました。
パレスチナという言葉を聞いて、真っ先に思い浮かぶイメージとは、紛争や難民のイメージではないだろうか?」このような展開から始まったパレスチナ駐在員である関口さんによる報告会では、パレスチナの現状だけでなく、その背景となる問題の本質、またパルシックによる活動について紹介され、深い知見を得られたイベントでした。

開催レポート

パレスチナトークCafé 駐在員が語る・西岸地区の暮らし ~心は半分パレスチナ~

日時 : 2019年8月26日(月)19:00~21:00
会場 : パルシック2F 自由学校教室
講師 : 関口(西岸事務所 プログラム・オフィサー)
主催 : 特定非営利活動法人パルシック
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■パレスチナの現状

東地中海のパレスチナ地域の領有権をめぐる「パレスチナ問題」。1948年のイスラエル建国に対し勃発した第一次中東戦争により、7080万人ものパレスチナ人が難民となってから70年以上が経過する。長期化する紛争、世界各地に分散する500万人とも言われるパレスチナ人、封鎖の続くガザ地区、占領政策の進むヨルダン川西岸地区、多様な様相を見せながら、パレスチナ問題はますますグローバル化、複雑化している。

今回開催された報告会では、紛争や難民のイメージからは想像し難いパレスチナの側面を垣間見ることができた。イスラエルの都市テル・アビブがイスラエルのニューヨークであるならば、パレスチナのニューヨークはラマッラーといえるかもしれない。都市部の物価や地代は年々高騰し、街中には高級車やナイトクラブの存在もめずらしくない。ラマッラーでは治安も比較的よく、ヨガ教室に通ったり、落とした財布が返ってきたりもする。

けれども、占領下の生活という前提を知ることなしに、人びとの暮らしを理解することはできない。歴史的パレスチナの面積は、1967年の第三次中東戦争後に大幅縮小し、現在イスラエル領80%、パレスチナ領20%となっている。20%という数字も、実情を見ると、ヨルダン川西岸地区(東エルサレム含む)ではイスラエルの入植活動により、またガザ地区では軍事封鎖等によって実質的な面積が縮小し続けている。さらに領土内(西岸地区ABC地区と分かれており、A地区では行政権、軍事権共にパレスチナ自治政府が、B地区では行政権はパレスチナ、軍事権はイスラエルというように複雑な構造となっている。

その中でも、行政権、軍事権共にイスラエルが実権を握っているC地区は、軍事拠点や水資源確保といった入植地の拡大戦略のため、A地区とB地区を取り囲むように設定されており、新しい建物の建築や井戸の掘削はできない。水道、電気などのインフラ整備ももちろんイスラエル当局の管理下にある。また、A地区、B地区との境界には検問所が敷かれ、治安上の問題や事件が起こると「集団懲罰」により道路封鎖や家屋破壊の対象になることもある。物理的にも精神的にもパレスチナ人は不自由な生活を強いられており、イスラエル軍・入植者と住民との日常的な衝突は、この地区ではめずらしくないという。

一方で入植地の住民は、主に2種類に分かれる。1つ目は「ユダヤ民族」や「ユダヤ人国家」の特殊性を誇示し、西岸地区を聖書に登場する「約束の地」として入植地拡大を目指すシオニスト右派など、積極的に入植地に移り住んだ者、2つ目は政府の補助を受けることのできる入植地に経済的な理由から移り住んだ者。報告会で提示された1枚の写真では、C地区の丘上にある監視塔からパレスチナ人の村を監視したり、水資源の限られたパレスチナ人居住区のみに黒い貯水用タンクが置かれていたりと、領土内における異様さを容易に読み取ることができた。

左上:丘上にあるイスラエル入植地と監視塔/右下:パレスチナ人居住区の黒い貯水用タンクを置いた家屋

■パレスチナ問題の本質

これらの問題の背景には、19世紀末に始まるシオニズム(ヨーロッパのユダヤ人による世俗的な国家建設運動)や、オスマン帝国からの独立を求めるアラブ民族主義の高まり、それらを利用し、帝国主義、植民地主義の拡大を狙った欧米の外交政策が挙げられる。

第一次世界大戦当時、イギリスは対オスマン帝国(トルコ)戦を有利に進めるため、聖地メッカの太守フセインと、反乱の見返りにオスマン帝国からの独立を約束する「フセイン=マクマホン協定」(1915)を、シオニストのユダヤ人に対しては、パレスチナでの国家建設を約束する「バルフォア宣言」(1917)を、さらに同盟国のフランスとは戦後の占領地分割を約束する「サイクス・ピコ協定」(1916)を結ぶ、いわゆる「三枚舌外交」を行った。

このような政治的背景のもと、大戦に勝利したイギリスはパレスチナの地を委任統治する。1930年代以降、ナチス政権の台頭とともにドイツ国内の人種主義政策がエスカレートし、ヨーロッパからのユダヤ人移住が加速、パレスチナに先住していたアラブ人との間で衝突が相次いでいく。統制が取れなくなったイギリスは、問題解決を第二次世界大戦の戦勝国によって設立された国際連合に放棄することになる。1947年、国連は「パレスチナ分割決議案」を採択し、パレスチナの地にアラブとユダヤの二国家を建設しようとする。

しかし分割案は、先住していた多数派のアラブ人に対して43%、新たに移住してきた少数派のユダヤ人に対して57%の土地を与えるという内容であり、両者から反発が起こる。1948年、シオニストはイスラエル建国を宣言し、これに対して勃発した第一次中東戦争により、7080万人ものパレスチナ人が故郷を追われ難民となった(ナクバ)。四度にわたる中東戦争以降、米国が主導となり中東地域での和平交渉を進めていくが、大きな成果が上げられることはなかった。

1993年ノルウェーによる仲介の末、イスラエルのラビン首相とPLO(パレスチナ解放機構のアラファト議長との間でオスロ合意が締結される。オスロ合意は、新たに樹立されたパレスチナ自治政府下で5年間のパレスチナ暫定自治と、パレスチナ難民の帰還権や聖地エルサレムの在り方など最終的な国の在り方を話しあう最終地位交渉の開始を取り決めたが、イスラエルとパレスチナ双方でオスロ反対派の妨害を受けることになる。結局最終地位交渉は行われないまま暫定自治期間は終了し、イスラエルの入植地拡大とともに、パレスチナ内部の鬱憤が蓄積していく。

2000年には第二次インティファーダが勃発。9.11以降のアメリカの「対テロ戦争」の言説に同調する形で、イスラエルはパレスチナ各地に「テロリストを防ぐ」という名目での分離壁建設や土地接収による占領政策を加速させていく。結果として、被占領地パレスチナは、アメリカの政治・軍事的援助を受けたイスラエル政府と、イスラエル政府に管理・指揮されたパレスチナ政府の二重の支配構造に置かれ、パレスチナ住民のパレスチナ政府に対する信頼も低下している。

■パレスチナにおけるパルシックの活動

長期化する紛争を背景に、度重なる戦争や長期化する封鎖による貧困問題、また占領政策下での自由な移動や土地利用の制限による集積場の不足とゴミの違法投棄による環境問題が深刻となっている。パレスチナにおけるパルシックの活動は、ガザ地区では女性グループによる羊の畜産・酪農や乳製品などの販売を通した生計支援、西岸地区では耕作放棄地への植樹や、ゴミ分別と堆肥作りなどの環境改善支援に分かれる。地域に根差した持続可能な事業を模索しながら、より住みやすい環境作りと循環型社会の形成を目指している。

ワークショップなどを通した地域住民への啓発活動によって、パレスチナ人自らが当事者意識を持って、コミュニティを変えていきたいと思えるようなパートナーシップの形成にも力を入れている。

制限の多い占領下にあっても、持続可能なコミュニティの維持に貢献していけるように、パルシックの取り組みを継続し、将来的には事業地以外のその他の地域のモデルケースとなれるよう努力したいと展望が語られた。

■報告会の感想

パレスチナ問題は、一見すると「世界中から集まってきたユダヤ人と土地を奪われたパレスチナ人との争い」という構図に見えますが、今回の報告会を通して、そうした構図の背景には、大国を含める各国のエゴや為政者の思惑があることを垣間見ることができました。同時に、このような国の政策が大人だけでなく、子どもたちにも多大な影響を与えていると感じました。

政治情勢が安定せず、国内外においてまともな就職が難しい現在のパレスチナでは、将来的に子どもたちはますます経済的に貧しくなるだけでなく、個人としてのアイデンティティの確立も難しくなってくるのではないかと感じました。

アイデンティティの確立は、個人の「個性」を尊重することで、様々な形で構成されるパズルのピースに例えられます。ですが、パズルのピースを埋めるためのボードがなければ、ピースの居場所はありません。占領や封鎖の状況が続き分裂状態にあるパレスチナの現状においては、占領と封鎖の終焉、パレスチナの独立を通して、ボードという名の国を形成することが、パレスチナ人が誇りや生きがいをもって将来を展望していくために必要なのではないかと思いました。

おまけ:会場設営とアラブ料理

報告会を開催するにあたり、会場設営からアラブ料理の準備など一通りのお手伝いをさせてもらいました。

ちなみに私が担当した料理は、レバント地方発祥の伝統的なアラブ料理の「ホムス」。中東地域では日常的に食べられている家庭料理であり、ひよこ豆に塩などを加えてペースト状にしたものだそうです。

今回は現地の作り方に倣い、平たいお皿に盛ったフムスを円形に型取った上で、中央にくぼみをつくり、そこにオリーブオイルを注ぎ、赤パプリカの粉をトッピングに加えました。最初はキレイな円形に作ることが難しく大変でしたが、コツを掴み始めると分量を均等に伸ばして作れるようになりました。

現地では、ピタパンや野菜につけて食べるのが一般的だそうで、フムス以外にもヨーグルトときゅうりのサラダやトマトベースの煮込み料理も用意し、アラブ料理を堪能しました。今回のイベントを通して、1つのイベントを実行するだけでも、多くの時間や人手がかかることも学ばせていただきました。

左から、ピタパンに豆のトマト煮、ヨーグルトサラダ、ホムス

左から、ピタパンと、それにつけて食べる豆のトマト煮、ヨーグルトサラダ、ホムス

ヨーグルトサラダ(右)は、ヨーグルトに角切りキュウリ、レモン、オリーブオイル、ニンニク、みじん切りのイタリアンパセリ、塩少々を混ぜる

ヨーグルトサラダ(右)は、ヨーグルトに角切りキュウリ、レモン、オリーブオイル、ニンニク、みじん切りのイタリアンパセリ、塩少々を混ぜる

(東京事務所インターン 山口勝太)