PARCIC

スリランカ

ジャフナの難民キャンプで再会した女性

パルシックが食糧配布を行っている難民キャンプには、ジャフナの東海岸の漁民の家族が多く収容されています。この地方は、タミル人の自治権の獲得を掲げた『タミル・イーラム解放の虎』(LTTE)とスリランカ政府軍が激しい攻防戦を重ねた地域です。ジャフナ半島の中心部であるジャフナの町は、1995年からスリランカ政府軍の支配下に入っていますが、海岸地帯や南部はその後も両勢力が奪い合っており、ヴァダマラッチ・イースト郡は2002年の停戦合意に際してLTTE支配地域となっていました。それ以外の地域は、スリランカ政府軍が「高度警戒地域(High Security Zone)」と指定しており、立ち入り禁止措置がとられていました。この「高度警戒地域(High Security Zone)」の住民は、内戦が激化する以前から難民となって、スリランカ政府軍支配地域かLTTE支配地域のいずれかで暮らしていたのです。

このヴァダマラッチ・イースト郡にウドゥトライという漁村があります。

2004年の暮れに、スマトラ沖地震による津波がスリランカを襲ったとき、この漁村も被災し、人口1,500人くらいの村ですが270人が亡くなりました。多くの死者を出しました。パルシックはジャフナの政府軍支配地域を中心に活動していましたが、津波の被災者支援のときには、このウドゥトライという漁村も支援対象としました。その後、この村の内戦や漁の事故で夫を失った女性たち15名によるグループをつくって、干物作りの支援をしました。とても勤勉な女性たちで、彼女たちがつくる干物は好評で、遠くワウニヤからも仲買人が買いに来て普通の干物の2倍近い値がつくので、彼女たちも喜んでいました。日本の鰯の干物のようなもので、スリランカの人たちはこれをカレーに入れたり、油で揚げてスパイスと絡めたりします。

2006年夏に内戦が再燃したとき、この地域はスリランカ政府軍から爆撃を受けていたので、この女性たちの多くは、さらに南のLTTEが強かったムライティブに逃げました。そして不幸にして、このムライティブがLTTEと政府軍との最後の激戦地となったのです。2006年夏以降、このウドゥトライの女性グループとは連絡が途絶えてしまい、内戦のニュースが届くたびに彼女たちはどうしているのかと心配したものでした。

8月にパルシックが食糧支援を開始して、ジャフナ県内の各キャンプをまわったとき、当時のウドゥトライの女性グループのリーダーのバヌマティさんと3年ぶりに再会することができました。バヌマティさんは夫を内戦で亡くしています。船をもっていない漁師だった彼女の夫は、1991年に労働者として知人の漁船に朝乗り込んで漁に出かけましたが、頭と肩をスリランカ海軍に撃たれ、海岸までたどり着きましたがそこで事切れたと言います。寡婦となった彼女は、内戦のなかできることは何でもして5人の子どもを育ててきましたが、津波で長女と末息子の2人を失ったのでした。22歳の長女は結婚して隣に住んでいたのですが、妊娠中だったので、波にさらわれてまだ見ぬ孫とともに亡くなり、唯一の息子(当時13歳)も死亡しました。残された19歳、17歳、15歳の3人の娘と一緒に暮らしていた彼女は、3人の娘を守るために、内戦が激化したあとムライティブに逃げていたのですが、LTTEの敗色が濃くなると、娘たちも兵士として徴兵され始めたので、娘を守るために1月15日にムラティブから船を出して、ジャフナの北端の町ポイントペドロまで一夜舟を漕いで逃げてきて、難民キャンプに収容されたのでした。彼女は「難民キャンプのなかでもお金を持っていたり、ジャフナ市内に親戚がいたりする人は、差し入れをもらったり食糧を買ってもらったりもできるけど・・・」と語っていました。筆者がカメラを向けると娘たちともども恥ずかしそうに笑い、生涯でただ一枚の写真は、津波後にウドゥトライで干物作りをしていたときに筆者が訪れて撮った写真だったけど、今回の内戦のなかで逃げ惑ううちに失くしてしまった、と語りました。

同じウドゥトライの女性グループの1人プシュパラタさんも、結婚した娘夫婦と未婚の娘と一緒に難民キャンプにいました。4月15日の早朝にムライティブから船を出して5時頃にポイントペドロに着いたと言います。軍の事情聴取を受けたあと、今のキャンプに収容されたそうです。2007年6月頃に、ウドゥトライはもう危険だということで、ムライティブに避難したそうです。2008年1月に、一度ウドゥトライの家に帰ったけれど、連日激しい砲撃で、ずっと塹壕の中で暮らさなければならない毎日だったので食べ物もなく、2008年6月に再びムライティブに戻ったけれど、1ヵ月後には塹壕のなかで暮らさなければならない状態になったといいます。毎日10人から20人位ずつ死亡していったそうです。ある日砲撃の音で塹壕に身を伏せ、終わったので体を起こすと、子どもの1人が立ち上がらなかった、砲弾のかけらが貫通して死亡していたと語ってくれました。

かつての女性グループのメンバー15人のうち、3人は亡くなってしまいました。

(パルシック 井上礼子)