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大坂さんの東ティモール派遣日記(11)

Bondia(おはようございます)。この記事がホームページにアップされている頃にはすでにもう9月を迎えている事でしょう。しかし8月と言えば日本人にとって特別な月であります。2度の原爆投下、そして終戦記念日。私が子供だった頃は8月になると戦争映画やドキュメンタリーがテレビで数多く放映されていました。現在はその放映数も昔より少なくなったような気がします。怖くて恐ろしくて見たくないのに見入ってしまう。感受性の豊かな時に観たことによって、私は多くの影響を受けたような気がします。そしてそのことが今の活動に繋がっているのかも知れません。特に小学校2年生の時にみた映画【ガラスのうさぎ】、これには強い衝撃を受けました。同じ小学生である敏子に『どうしてこんなことが起こり得るのだろう』と当時恐怖におののきました。本当に怖かった、そしてとにかく悲しかった、そんな記憶があります。

私の祖母は新日鉄の製鉄所のあった岩手県釜石市で、米軍の艦砲射撃により妹を亡くしています。防空壕に逃げた妹は攻撃により崩れた土砂の下敷きになったそうです。祖母は一縷の望みを掛け懸命に妹を探しました。そして見つけたのは累々たる死体の間から見えた、見覚えのあるスカートの生地だったのです。終戦の1週間前の出来事です。


▲サラおばあちゃんは手前の石段に腰かけ物乞いをしていた

今回はここ東ティモールで約70年前に日本人が残した、私達が決して忘れてはならない痕跡をご紹介したいと思います。

第二次世界大戦時、日本軍は1942年から3年間ティモール島全土を占領しました。ここはオーストラリア軍と日本軍の戦闘の舞台となりました。日本は住民を【労務者】として道路づくりやその他の仕事に強制的に従事させ、また女性は従軍慰安婦として性の道具として利用しました。その一人、サラおばあちゃんが今年3月に亡くなりました。交通事故でした。スーパー入口の石段に座り、いつも物乞いをしていた小さなご老人。私も何度かお見かけしましたが、おばあちゃんに日本人と深く関わるそのような過去があったなど、知る由もありませんでした。日本の支援者がお米や食べ物、住居の修復費などを提供し、物乞いをしなくて済むよう援助していたにも関わらず、それらがことごとく奪われてしまったそうです。
おばあちゃんは家族ともうまく行かず、家にいるのを嫌い、外へ出て物乞いをしていました。市場近くを歩いている際トラックに接触し倒れ、4日後に容体が急変し亡くなったそうです。若く美しい時期に壮絶な辛い経験をしたおばあちゃん。どんなにか恐ろしく悲しい日々であったことでしょう。

ある人は『戦争中なのだから仕方ないでしょう』と言うかも知れません。また70年も前のことを今更何故持ち出すのだ、と。しかし辛い思いをした人々にとっては決して【過去】ではないはずです。きっと昨日のことのように発作的に脳裏に蘇ってくることでしょう。そして彼らが亡くなっても真実は決して消えないのです。私達に出来ること、それはいつまでもこれらを心に留め、未来永劫二度と繰り返してはならない、また後世に伝える・・・これは決して自虐的な行為ではありません。私が溺愛する二人の小学生の甥にも、いずれ時期が来たら話そうと思っています。

東ティモールでは、多くの日本のNGOが長く支援活動を行ってきました。その努力は並大抵のものではなかっただろうと想像します。そしてティモール人の多くは、その業績に率直に敬意を表してくださいます。しかしここで活動する上で絶対に忘れてはならないこと、それは多くの犠牲者の涙が落ちているこの地で、私は活動させていただいていると言う事実なのです。

(東ティモール事務所 大坂智美)