[PARCIC]特定非営利活動法人 パルシックは東ティモール、スリランカでフェアトレードを含めた「民際協力」活動を展開しています。


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基礎情報
概要
国名:東ティモール民主共和国
(The Democratic Republic of Timor-Leste)
面積 約1万4,000平方キロメートル(東京、千葉、埼玉、神奈川の合計面積とほぼ同じ大きさ)
人口 約106.5万人(2008年)(推定)
首都 ディリ
言語 テトゥン語が一般的ですが、その他多数の地域語があります。
宗教 キリスト教99.1%(大半がカトリック)、イスラム教0.79%
平均寿命 59.7歳(日本は82.3歳)
成人識字率 50.1%
出生率 女性一人あたり7人(日本は1.3人)
乳幼児死亡率
(5歳以下)
1,000人あたり61人(日本は4人)
通貨 US米ドル
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地図

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略歴

16世紀

ポルトガル人がティモール島に上陸。

1911~
1912年

  サメ地方のリウライ(王)、ドン・ボアベントゥラが蜂起。2年間の反税闘争。1912年に鎮圧される。

1941年

12月17日 連合軍がティモール島に侵攻。

1942年

2月20日 日本軍がティモール島に侵攻し、終戦(1945年)まで実行支配。

1974年

4月

ポルトガルでカーネーション革命。東ティモールでも脱植民地化への動きが本格化。

1975年

11月28日

フレテリン、東ティモール民主共和国独立を宣言。

12月7日

インドネシア軍が東ティモールに全面侵攻。その後、国連安保理はインドネシア軍の即時撤退を求める決議採択。

1991年

11月12日

サンタクルス虐殺事件。インドネシア軍による無差別発砲によって数百名の死傷者。

1999年

5月5日 国連、ポルトガル、インドネシアが独立を問う住民投票の実施を合意。
8月30日 住民投票実施(投票率98%)。約80%が独立を支持。その直後から併合派民兵とインドネシア国軍による破壊・略奪行為が激化。
9月 オーストラリアを中心とする多国籍軍が東ティモールに到着。

10月25日

国連安保理、東ティモール暫定統治機構(UNTAET)の設置を決定。

11月1日

インドネシア国軍、完全撤退。

12月2日

国民諮問評議会NCC発足。

12月16日

国民諮問評議会(NCC)発足。

2000年

7月2日

NCC、東ティモール人4人、UNTAET側4人からなる暫定内閣設置を決定。

10月

国民評議会(NC)発足。

2001年

8月30日

憲法制定議会選挙。フレテリンが88議席中55議席を獲得。

2002年

3月22日

憲法を採択 。

4月14日

大統領選挙、シャナナ・グスマン氏が初代大統領に 。

5月20日

東ティモール民主共和国として主権回復を果たす。

2004年

12月

各県にてスク(村)・アルディア(小村)選挙開始。

2005年

 

4月28日

国連東ティモール事務所(UNOTIL)の設立を決定する決議が採択。

8月

東ティモール石油基金設立。

2006年

4月28日

離脱兵による抗議活動に関連し暴力行為が発生し政府は軍を投入。

5月初旬

憲兵隊員が国軍から離脱、国軍本部を襲撃。

5月25日

東ティモール政府の要請を受け国際治安部隊を派遣。

6月26日

アルカティリ首相辞任。

7月10日

ラモス・ホルタ外相が首相就任。

8月25日

UNOTILからUNMITに移行。

2007年

5月9日

大統領選挙決選投票実施。

5月20日

ラモス・ホルタ前首相が大統領就任。

6月30日

国民議会選挙実施。

8月8日

シャナナ・グスマン前大統領が首相就任。

2008年

2月11日

ラモス・ホルタ大統領及びグスマン首相「襲撃」事件発生。ラモス・ホルタ大統領重傷を負う。

2月12日

非常事態宣言発令。

4月17日

ラモス・ホルタ大統領職務復帰。

5月8日

非常事態宣言解除。

8月

元民兵指導者逮捕。8月30日大統領令により、超法規的に釈放。

2009年

8月24日
~28日

ラモス・ホルタ大統領の発案により、初の国内自転車一周大会(ツール・ド・ティモール)を開催。
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コーヒー産業

1) 東ティモールにおけるコーヒー生産の位置
東ティモールでは、およそ4万5000世帯の農家がコーヒー生産を主な収入源にしている。一家族あたりの構成人員は平均6名、すなわちおよそ27万人が直接コーヒー生産で食べていることになる。一家族当たりの所得は年間127ドルから200ドルで、そのうち90%がコーヒーからの所得といわれる。とくに高地での自給農業を補足する現金収入をうるほとんど唯一の道としてコーヒー生産があると考えられる。

農民は高度によって異なるが、概ね5月末から9月までの時期に自分の畑のコーヒーを収穫する。収穫作業は、ごく一部を除いて家族労働で行う。収穫時期には子どもたちも収穫に参加する。そして収穫したチェリーを自宅の庭先などで乾燥させ、手で果肉を除去してパーチメント法にした状態で地域の仲買人に販売するのが伝統的だった。エルメラ県のようなコーヒー生産者が集中する地域では輸出業者が直接買い付けにくる場合がある。またエルメラ県では木製の手動果肉除去機を有していて水洗式で加工する農民もいるが、水へのアクセスが良い農家は少ないため、およそ70%が乾燥式といわれ、パーチメントの質を低くしている。後述するCCT(NCBA)の加工場が近くにある地域では、チェリーのままNCBAに販売する農民が多い。

コーヒー畑を有する農民も、「コーヒー農民ではなく、たんなる収穫者だ」と言われているように、収穫前に下草狩りを行う以外にはほとんど畑の手入れは行わないので、平均してコーヒー生産に携わる時間は、年55日間くらいといわれている。雨季の始まる11月頃から畑の田起こしを始め、野菜・イモ類・とうもろこし・キャッサバ・豆類などを植え、3-4月に収穫し、1年間の食糧とするケースが多い。現金収入を補う手段としては、一般に鶏、豚、山羊などの家畜を飼い、それらを育てて売ることが多い。
2)東ティモールにおけるコーヒーの歴史

1693年 

オランダがイエメンからオランダ領東インドに持ち込んだコーヒー苗(アラビカ種)が、ティモール島西部のオランダ領にも届く。

1815年

ポルトガル領ティモール総督Jose Pinto Alcoforado de Azevedo de Souzaが、コ―ヒー苗を持ちこんだ。

1859年

リスボン条約で、ポルトガルとオランダの間でそれぞれ東西ティモールを分割。

1860年

ディリとマカッサルのブギス人との間にコーヒー取り引きが成立していて、当時のポルトガル領ティモールにおいては、白檀に次いで第2の輸出産品となっていたという。

1890年代

ポルトガルが持ちこんだコーヒーにさび病が発生し、主だった種は絶滅してしまう。しかし、東ティモールではすでにアラビカ種とロブスタ種の自然交配が進んでおり、突然変異としてできたHybrido de Timor (アラビカ種に分類、Arabustasとも呼ばれる)がこの病害を生き残った。

1894年~

1908年

ポルトガル領ティモール総督をつとめたJose Celestino de Silvaは、標高1000~1200メートルほどのエルメラ県ハトリア郡ファトゥベシに、9000ヘクタールの広大な農園を開いてHybrido de Timorを植える。

1899年

Celestino de SilvaはDr. Albano de Maglhaesとともに、のちにポルトガル領ティモールで最大のコーヒー会社となるSAPT(The Sociedade Agricola, Patria e Trabalho)社を設立。

1934年

SAPT社は日本の国策会社、南洋興発株式会社(1921年設立、社長松江春次)とともに合弁会社を設立し、15,700ヘクタールにおよぶ広大な土地でコーヒーやカカオ、ゴムなどの農園を経営する。

1936年

ポルトガル植民地政府は、各農家に1世帯あたり600本のコーヒーの木を植えることを命じる法令を出す(これは1911-12年の反乱に対する罰則として行われたという説もある)。当時の東ティモールにおけるコーヒー産業は、80パーセントをこうした諸侯の勢力下でコーヒー栽培を強いられた小規模生産者が占め、15パーセントをSAPT社の農園、残り5パーセントがその他の大規模農園という構成になっていた。

1941年12月

第2次世界大戦開戦までに、SAPT社の資本は40パーセントを日本政府が、7.619パーセントをポルトガルのウルトラマリノ国立銀行(BNU)が所有していた。戦後、この日本政府の持ち分はポルトガル植民地政府に返還される。

1975年

インドネシア軍(ABRI)の武力侵攻により、ポルトガル領ティモールは事実上インドネシア政府の支配下に置かれる。1979年、インドネシア政府によって出された法令で、SAPT社の所有する資産はインドネシアに委譲する、という合意が明文化され、以降、東ティモールのコーヒー産業および交易部門は、インドネシア国軍上級官僚によって設立されたPT Denok Hernandes Indonesia(Denok)社に独占されることになる。

1994年

アメリカの非営利連合NCBA(National Cooperative Business Assosiation)は、USAIDの強い圧力の下で、インドネシア政府は、1994年にコーヒー貿易の開放を認め、NCBA、USAIDとともに「ティモール経済復興・開発プロジェクト」(TERADP: Timor Economic Rehabilitation and Develpoment Project)を8年間、1750万ドルの計画で実施することを決める。

1999年

国連による平和維持軍の派遣を経て、2002年の独立までの時代に、コーヒー部門に関しても数多くの調査・支援が行われた。しかしながら、支援はいずれも短期的なものでしかなく、農林水産省も予算が限られていることから継続的な政策を実施することはできず、民間セクターの活動の調整役という位置に自己規定している。
2002年 独立を前後して多くの民間企業、NGOがコーヒー事業に参画し始めた。
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文献、WEB
1) 参考文献
書籍・文献名
著者
出版元
出版年
『東ティモール独立史』
松野明久
早稲田大学出版部
2002年
『東ティモール---奪われた独立・自由への闘い』 高橋奈緒子・益岡賢・文珠幹夫 明石書店 1999年
『東ティモール2、「住民投票」後の状況と「正義」の行方』 高橋奈緒子・益岡賢・文珠幹夫 明石書店 2000年
『ナクロマ・東ティモール民族独立小史』 古沢希代子・松野明久 日本評論社 1993年
『いつかロロサエの森で』 南島風渉 コモンズ 2000年
『<東>ティモール国際関係史 1900-1945』 後藤乾一 みすず書房 1999年
『チモール、知られざる虐殺の島』 田中淳夫 彩流社 1987年
『東ティモールを知るための50章』 山田満編著 明石書店 2006年
『月刊オルタ2月号』   アジア太平洋
資料センター(PARC)
2000年
『月刊オルタ10月号』   アジア太平洋
資料センター(PARC)
2000年
『オルタ8・9月号』      
2)東ティモール関連ウエッブサイト
@総合サイト 
Back Door
JSMP
(Judicial System Monitoring Program)
http://www.pcug.org.au/~wildwood/Index.htm
東ティモールに関するあらゆる情報が盛り込まれている。東ティモールのNGO、政党などに関する情報やリンクも充実。 ※英語、テトゥン語、インドネシア語、ポルトガル語
  http://www.jsmp.minihub.org/
東ティモールにおける司法制度のモニタリングを行う。※英語、インドネシア語、ポルトガル語
@日本のNGO 
East Timor Freedom Site The Commission for Reception, Truth and Reconciliation
http://www.freedom.tp/
世界中の関連サイトをリンクした、東ティモール・サイバーカントリー。ほとんどすべての東ティモール関連情報にアクセスできる。 ※英語
  http://www.cavr-timorleste.org/index.htm
東ティモール受容真実和解委員会。2002年4月から2004年10月まで、難民帰還促進、元民兵のコミュニティへの受け入れ(和解)、過去の人権侵害の真実追求などを行う。※英語
東ティモール全国協議会   Yayasan HAK
http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/
日本での東ティモールに関する問題に取り組む団体によるネットワーク。基本情報から、文献・映像資料一覧や旅行情報なども豊富。
  http://www.yayasanhak.minihub.org/
東ティモールで最も有名な人権団体のニュースレター等が見られる。※英語、テトゥン語、インドネシア語
ティモール・ロロサエ情報   East Timor Action Network (ETAN/USA)
http://www.asahi-net.or.jp/~gc9n-tkhs/
東ティモールに自由を!全国協議会とIFET-OP監視団の協力で運営されるページ。1999年8月の住民投票とその後の経過について詳しい。
  http://www.etan.org/
米国の東ティモール支援団体。ニュース、活動など充実している。※英語
@東ティモールのNGO 
La'o Hamutuk  
http://www.etan.org/lh/
「共に歩む」という意味のNGO。国連暫定行政下での開発や人権などの進展状況をモニタリングするのが目的※英語、テトゥン語、インドネシア語、ポルトガル語
   
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