1693年 |
オランダがイエメンからオランダ領東インドに持ち込んだコーヒー苗(アラビカ種)が、ティモール島西部のオランダ領にも届く。 |
1815年 |
ポルトガル領ティモール総督Jose
Pinto Alcoforado de Azevedo de Souzaが、コ―ヒー苗を持ちこんだ。 |
1859年 |
リスボン条約で、ポルトガルとオランダの間でそれぞれ東西ティモールを分割。 |
1860年 |
ディリとマカッサルのブギス人との間にコーヒー取り引きが成立していて、当時のポルトガル領ティモールにおいては、白檀に次いで第2の輸出産品となっていたという。 |
1890年代 |
ポルトガルが持ちこんだコーヒーにさび病が発生し、主だった種は絶滅してしまう。しかし、東ティモールではすでにアラビカ種とロブスタ種の自然交配が進んでおり、突然変異としてできたHybrido
de Timor (アラビカ種に分類、Arabustasとも呼ばれる)がこの病害を生き残った。 |
1894年~
1908年 |
ポルトガル領ティモール総督をつとめたJose
Celestino de Silvaは、標高1000~1200メートルほどのエルメラ県ハトリア郡ファトゥベシに、9000ヘクタールの広大な農園を開いてHybrido
de Timorを植える。 |
1899年 |
Celestino de SilvaはDr.
Albano de Maglhaesとともに、のちにポルトガル領ティモールで最大のコーヒー会社となるSAPT(The
Sociedade Agricola, Patria e Trabalho)社を設立。 |
1934年 |
SAPT社は日本の国策会社、南洋興発株式会社(1921年設立、社長松江春次)とともに合弁会社を設立し、15,700ヘクタールにおよぶ広大な土地でコーヒーやカカオ、ゴムなどの農園を経営する。 |
1936年 |
ポルトガル植民地政府は、各農家に1世帯あたり600本のコーヒーの木を植えることを命じる法令を出す(これは1911-12年の反乱に対する罰則として行われたという説もある)。当時の東ティモールにおけるコーヒー産業は、80パーセントをこうした諸侯の勢力下でコーヒー栽培を強いられた小規模生産者が占め、15パーセントをSAPT社の農園、残り5パーセントがその他の大規模農園という構成になっていた。 |
1941年12月 |
第2次世界大戦開戦までに、SAPT社の資本は40パーセントを日本政府が、7.619パーセントをポルトガルのウルトラマリノ国立銀行(BNU)が所有していた。戦後、この日本政府の持ち分はポルトガル植民地政府に返還される。 |
1975年 |
インドネシア軍(ABRI)の武力侵攻により、ポルトガル領ティモールは事実上インドネシア政府の支配下に置かれる。1979年、インドネシア政府によって出された法令で、SAPT社の所有する資産はインドネシアに委譲する、という合意が明文化され、以降、東ティモールのコーヒー産業および交易部門は、インドネシア国軍上級官僚によって設立されたPT
Denok Hernandes Indonesia(Denok)社に独占されることになる。 |
1994年 |
アメリカの非営利連合NCBA(National
Cooperative Business Assosiation)は、USAIDの強い圧力の下で、インドネシア政府は、1994年にコーヒー貿易の開放を認め、NCBA、USAIDとともに「ティモール経済復興・開発プロジェクト」(TERADP:
Timor Economic Rehabilitation and Develpoment Project)を8年間、1750万ドルの計画で実施することを決める。 |
1999年 |
国連による平和維持軍の派遣を経て、2002年の独立までの時代に、コーヒー部門に関しても数多くの調査・支援が行われた。しかしながら、支援はいずれも短期的なものでしかなく、農林水産省も予算が限られていることから継続的な政策を実施することはできず、民間セクターの活動の調整役という位置に自己規定している。 |
| 2002年 |
独立を前後して多くの民間企業、NGOがコーヒー事業に参画し始めた。 |